「数馬居合伝1・2」

北添数馬と申します。令和から江戸時代に行ってしまい、居合で江戸時代を生きていく物語です。「~居合伝1」は天寿を全うし、「~居合伝2」は令和に戻ります。

(48)秩父事件と檜山省吾

埼玉県の秩父へ向かうのだが…

途中、寄居(よりい)の木下(きのした)道場へ立ち寄ることにした。

木下道場は「剣術お試し指南」というのをやっている。令和で言えば「体験稽古」である。

道場の玄関を開ける。一礼して「お試し指南を申し込んだ、北添数馬です」と声をかけると、道場主がやってきて、

「まあ、良く来た。おあがりなさい」

道場では門弟が稽古を続けている。二十人ぐらいいる。

「剣術は初めてかね?」

「居合を少々…」

「それなら話は早い!」

と、一人の門弟を呼び寄せた。

 

基本的なことを教わり…

防具をつけて、袋竹刀で叩き合う。

袋竹刀は一本の竹を幾つかに割り、革を被せて筒状に縫い合わせ、保護したものである。

木刀は、一歩間違えば大怪我、死亡事故にも至りかねない危険があった。しかし袋竹刀を使用することで相手に本気で打ち込んでも大きな怪我を負う事なく稽古に臨む事が出来る。

「剣道」という言葉は大正時代まで待たねばならない。

「やあやあ! おりゃ~!」

「おお~! こいや~!」

といった具合で、チャンバラごっこ感覚で剣術の稽古をするのである。

 

体験料は令和の金額にして三千円である。

 

2時間ほどやり、心地良い汗を流したあと、秩父へ向かう。

 

数馬は長瀞の岩畳で弁当を食べ終えると、荒川にひとつ石を放り投げ、秩父の中心地、大宮郷へ向かって歩きだした。

秩父は甲源一刀流の逸見道場がある。門弟は多く、北は北海道、南は鹿児島まで門弟がいる。

秩父神社小鹿野の檜山省吾という人物と待ち合わせをしている。檜山省吾は元・請西(じょうざい)藩士で、甲源一刀流の師範をしている。戊辰戦争では藩主自ら脱藩したため、一緒に転戦した。戊辰戦争後は小鹿野へ帰ってきて、小学校の教員をしている。

 

宮郷秩父神社にたどり着き、檜山と会う。四十五歳とのこと。小鹿野までの道案内をしてくれることになっている。檜山は請西藩士の頃からまだ上総の請西に一度も行ったことがないという。木更津に請西という地区がある。数馬は上総の出身なので知っている。高校のとき、清掃のアルバイトをしていたが、掃除をした公園のトイレが請西の団地内にあった。

「北添さん、請西ってどういうところなのですか?」

「いいところですよ。野兎を献上していたといいます。野兎がいるくらいですから、長閑なところです。冬も秩父ほど寒くないですし、ちょっと歩けば東京湾があります」

「こんど、木更津を案内してもらえますか?」

「いいですとも。木更津は潮干狩りもできますし」

「シオヒガリ?」

「海岸でアサリを採るんです。ときおり蛤が入っていることがありますしね。それと木更津は「証城寺の狸囃子」で有名な證誠寺があります」

数馬は故郷の上総の話なので、饒舌になった。

 

荒川を渡り、坂道を上がって音楽寺に立ち寄る。鐘を自由についていいとあるので、数馬は面白がって鐘を鳴らした。

やがて小鹿野に入った。

「ところで北添さんは居合をやるそうですが、ご流派は?」

夢想神伝流です。最近できた流派なのです」

こう言っておけば何とか誤魔化せると、数馬はいままでの経験で感じていた。

「北添さんの居合、見たいです。どうです、道場で」

「いいですよ。小鹿野では当分御厄介になるでしょうから。ところで檜山さん。私を小鹿野に誘った理由は何でしょう」

「最近、秩父の雰囲気が不穏なのです。何か悪い事が起きるのではないかと思って。北添さん、山岡鉄舟先生と親交があるでしょう。それでかなり強いという噂を聞きまして」

数馬は内心、「山岡鉄舟に会った=強い人物」とみられるのか、と思った。幕末・維新をくぐり抜けてきたが、運が良かっただけだろう。西郷隆盛と親交があって、新選組に居たなんて、節操が無さすぎる、と自分でも思う。よく生きてきたと感心する。

 

檜山省吾の悪い予感は的中した。

明治十七年十月三十一日、秩父一帯の農民が武装蜂起し、翌十一月月一日には秩父郡内を制圧して、高利貸や役所の書類を破棄した。

武装農民は小鹿野の町にも押し寄せてきた。いわゆる「秩父事件」である。

「北添さん、大変なことになりました。手伝っていただけますか?」

数馬は内心、複雑だ。

数馬は秩父事件の本を書いたことがある。秩父事件のご子孫は長いこと、「暴徒、暴動」と苦しめられてきた。百周年、百十周年という節目ごとに顕彰活動が行われた。百二十五周年の記念集会で、数馬は秩父困民党の高岸善吉を演じているのだ。ということで、武装農民の気持ちも分かるのである。

 

「北添さん。私は戸長役場に行きます。一緒に来てください」

檜山省吾は戸長役場に置かれた小鹿野町自警団の本部詰世話掛となり、町の防衛に尽くすことになった。甲源一刀流逸見愛作に協力を仰ぎ、道場門下生を集め 五十人一組の自警団五組を編成して町を護らせた。数百名が来襲するも自警団を見て尻込みし、町から去らせることができた。

数馬は、

「省吾さん、良かったですね」

としか言えなかった。

 

※「証城寺の狸囃子」は大正時代に発表されました。

 

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