「数馬居合伝1・2」

北添数馬と申します。令和から江戸時代に行ってしまい、居合で江戸時代を生きていく物語です。「~居合伝1」は天寿を全うし、「~居合伝2」は令和に戻ります。

(18)本を作る武士

剣術道場の稽古仲間、田原寛通(たわらひろみち)は備中(びっちゅう)松山藩士である。

彼の出身を知った数馬は「備中松山といえば、山田方谷(やまだほうこく)先生ですね!」

と言うと、目を輝かせて、

「よくご存じですね、北添さん。私、方谷先生の門下生なんです!」

と、かなり嬉しそうであった。

 

山田方谷は幕末の儒家陽明学者で、越後長岡の河井継之助も学びにやってきている。

JR伯備(はくび)線に「方谷」という駅がある。この駅名で、地元と鉄道省が争った。鉄道省としては、地名が原則で、人名は不可というのである。地元は熱心に鉄道省に陳情し、ついに鉄道省は負けて、現駅名になったという。そういう経緯を数馬は知っていたので、「山田方谷」を知っていたのだった。

 

有名な「学者」(学者に限らないが…)、の場合、「先生」という敬称をつけると、地元の人はかなり喜んでくれる。吉田松陰先生、佐久間像山先生などなど。西郷隆盛は「西郷さん、西郷先生」のどちらがいいのかな。これは薩摩藩士に聞いてみよう。

 

「北添さんは、居合をやるんですよね。道場主に頼んで、稽古のない日に道場を借りるので、見せてもらえませんか? 是非!」

 

数馬は喜んで承諾した。

 

さて道場にて…

田原は嬉しそうに、しかも神妙な顔つきで数馬を見ている。

数馬は久々に全日本剣道連盟居合の十二本の形をやることにした。

 

まず「携刀姿勢」となる。そして「神座(しんざ)への礼」をし、袴を捌いて正座をする。「刀礼」をして剣心一体の心境となり、下げ緒を結束する。

 

「前」(まえ)

「後」(うしろ)

「受け流し」(うけながし)

「柄当て」(つかあて)

「袈裟切り」(けさぎり)

「諸手突き」(もろてづき)

「三方切り」(さんぽうぎり)

「顔面当て」(がんめんあて)

「添え手突き」(そえてづき)

「四方切り」(しほうぎり)

「総切り」(そうぎり)

「抜き打ち」(ぬきうち)

 

最後の二本は後から追加された形なので、数馬はあまり稽古をしていない。

何とか演武を終えて、袴を捌いて正座をし、下げ緒を解く。「刀礼」をして、「神座への礼」をして、ふたたび「携刀姿勢」をして、退場する。

 

田原は「凄くいいです! 動きに無駄がない。これを我が藩に広めたいですなあ」

と言う。

そして、「北添さん、我が家に遊びに来てください。私、本を書いているのです。北添さんのことも書きますよ」

 

数馬は田原の長屋に遊びにでかけた。吃驚した。長屋のもう一部屋を借りて「書庫」にしているのだという。店賃(たなちん・家賃)が大変そうである。

田原の部屋にお邪魔すると、紙やら本やらがうず高く積まれていた。

「北添さん。これ、私が作った本なんです」と、田原の部屋にあった本を十冊持ってきた。全国各地の見聞、剣術のこと、江戸の美味しいもの、その他雑記…

しかも、一般的な出版ではない。木版印刷屋に頼んで本を作ってもらい、その本に関係した人に配り、山田方谷と藩主に献上しているのだという。つまり自費出版で、本を作るのが趣味なのだという。令和で数馬がやっていることと同じだ。千部作って売れなかったら死蔵になってしまう。自費で必要な部数だけ作ると、そういったリスクがない。数馬の場合は国立国会図書館に自分で納本している。

 

「田原さん、自分で本を作るのは楽しいでしょう」

と数馬が言うと、

「ええ、そうなんです。おかげさまで手元不如意です」

と、財布から小銭をじゃらじゃらと落とした。

それはそうである。少部数しか作らないから、単価が高くなる。しかも売らないのだから。本は印刷・製本すればするほど単価が安くなる。本でがっぽり稼げるのは、ほんの少数の著者である。印税は契約にもよるが、初版では出ない、再版なると発生する、という出版社が多い。

 

数馬の居合の本は誰も買わないだろう。令和の時代にインターネットでブログにして公開したが、ほとんど反響はなかった。

しかし、タレントのタモリ居合道二段(柳生新陰流)である。タモリ居合道の本を書いたら、それは読んでみたいのではないか。数馬はそう思う。タモリと武道というギャップも面白いのではないか。

 

田原の「本づくり」は並大抵ではないことが分かる。もっとも大変なのは「全国の見聞録」であろう。何しろ旅の費用がかかる。通行手形も手配しなければならない。写真がないから、詳細なメモをとらなければならない。旅から帰ってきたら、記憶の薄れぬうちに原稿にしなければならない…そして、旅先でお世話になった方への御礼状。

それに長屋の隣の部屋の「書庫」。令和の時代はインターネットがあるから、簡単に情報を得られるが、書物が頼りである。

 

田原は仕上がった本が届いたので、木版印刷屋に手紙を出したという。

令和の現代文にすると、こうである。

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やまもと木版印刷 金森様

 

お世話になっております。

完璧な仕上がりで大変に満足をしています。

本を作るというのは楽しい作業ですね。

やまもと木版印刷さんに出会えてよかったと思っています。

お年賀の手拭もありがとうございました。

また原稿がありますので、次回も宜しくお願いします。

 

田原寛通

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そして、返事が来たそうで…

 

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田原様

 

お世話になります。やまもと木版印刷の金森です。

お忙しい中、毎回お褒めの言葉をいただき大変励みになります。

確かに本を作るという作業は労力がかかると思いますが、やりがいがありそうですね。

また田原様の本づくりの少しでもお役に立てれば幸いです。

至らない点もあるかと存じますが、精一杯頑張りますのでよろしくお願いします。

今後ともよろしくお願いいたします。

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この便りは、田原を大いに励ました。

ふつうの版元(出版社)だと、こういうお付き合いはないであろう。

田原は手元不如意になるが、本を作るのが何よりも生き甲斐だろうし、木版印刷屋としても嬉しいことだろう。双方とも喜びを分かち合い、いい関係ではないか。

 

田原は、数馬に本と木版印刷屋からの文を見せたことに満足したのか、

「北添さん、日暮里(にっぽり)の羽二重団子を食べにいきませんか?」

実は、田原は団子屋があるのは知っているが、食べたことがないのだという。

実際に食べて本に書くのだろう。

「ええ、是非とも、一緒に行きましょう」

 

二人は、日暮里に行く支度をした。

数馬は思うのである「本を書くために居合をやったのか。居合をやったから本を書いたのか」と。

 

 

 

(協力:有限会社やまもと印刷・金森様 http://www.insa-y.co.jp/

筆者が印刷所からいただいたタオル

 

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