「数馬居合伝2」

北添数馬と申します。令和から江戸時代に行ってしまい、居合で江戸時代を生きていく物語です。

(19)黒田武士

福岡藩士の佐々木和之介は、江戸の福岡藩上屋敷で暇そうに寝ころんでいた。北添数馬は彼に用事があって、上屋敷を訪ねた。数馬も暇を持て余している一人だった。佐々木と親しい間柄ではなかったが、いつしか親しく口をきくようになっていた。
数馬は、
「佐々木どの、歌ってくださいよ、黒田節!」と、リクエストをした。「よしきた!」佐々木は黒田節を唄いはじめた。床の間には黒田武士の博多人形が飾ってある。

「♪酒は呑め呑め 呑むならば 日本一(ひのもといち)の この槍を 呑み取るほどに 呑むならば これぞ真の 黒田武士」

数馬は、襖の蔭に隠れ、口三味線で唄いはじめた。すると、三味線の音色に誘われて、下男や小姓たちまでが寄ってきて、一緒になって手拍子をとったりしながら合唱した。
さすがに黒田(藩主が黒田氏)の武士だけに、佐々木も上々の名声で、朗々とよく通る声音で歌った。
佐々木は歌い終わった途端に、急に苦しそうに咳き込んだ。喘息持ちだったのだ。
「どうしました?」と数馬が訊いた。
「いや、何でもござらぬ」と佐々木は答えたが、顔はすでに青ざめていた。
「でも顔色が悪うございますよ」数馬は心配しているような口振りで言った。そして、「何かわたしに出来ることがあるでしょうか?」と訊いた。
「いや、別に……」佐々木は無理に咳を鎮めると、苦し気に息をしながら答えた。「……実は、お願いがごじゃるんじゃが……」
数馬はびっくりして叫んだ。
「何でございましょう?」
「拙者ば……拙者ば斬り捨ててくだしゃれ」佐々木はそう言うと、咳き込んだ。
「えっ!」数馬には一瞬意味がわからなかった。「どういうことでしょうか?」数馬はすっかり驚いて尋ねた。
「……居合が得意やて聞いた……」と、佐々木は言った。「拙者ば斬ってくだしゃらんか?」
数馬は動揺して、どうしてよいかわからず、立ち竦んだ。
佐々木は咳き込みながら言った。「拙者には……悩みがあるのじゃ。それが……それさえ解決すれば、死なずに済むやも知れぬのじゃ」
数馬には何のことかさっぱりわからない。「悩みとは何ですか」
「……」佐々木は無言で、大きく息をしながら、また苦しそうに咳き込んだ。そして言った。「拙者ん……命ば狙うとー者がおるんじゃ」
「えっ? 誰でございますか?」数馬は思わず聞き返した。「いったい、誰に狙われているのですか?」
だが、佐々木は苦しそうに呻きながら叫んだ。「……死にたか!……死ぬしかあらんめえ!」
「落ち着いてください!」数馬は仰天して叫んだ。「一体どういうことなのですか? わからないので教えてほしいのです! 死にたいなどと、そんな弱気なことはおっしゃらないでください!」
数馬が言うと、佐々木はむっとした様子で怒鳴り返した。「しゃあしか(うるさい)! おぬしんような者に言うたっちゃわかるもんか!」そして咳き込みながら言った。「どうせ拙者は死ぬのだ」そして苦しそうに喘ぎながら続けた。「やったら……死ぬ前に……おぬしに斬られたかとじゃ」
「なぜ?」数馬は言った。そして尋ねた。
だが佐々木は答えなかった。彼は思い詰めたように目をつぶり、大きく息をつきながら、喘いでいるだけである。
数馬は困ってしまった。
困り果てた末に「そうだ! わたしが斬ってあげましょう!」と、数馬は言った。夢想神伝流には、「順刀(じゅんとう)」という、介錯する技がある。そういう技なので、大会など、公の場では演武しないことになっている。
「必ず斬ってさしあげます。だからもう心配はいりません」
すると佐々木はほっとしたように頷いた。だがすぐに咳き込み始めると、床に倒れてしまった。彼はゼイゼイ苦しそうに息をした。そして数馬に目で合図をした。寝かせてくれ、ということらしい。
数馬は佐々木を布団に寝かせ、ゆっくりと体を横向きにした。
数馬は佐々木の背中を撫でてやった。彼の背中は、汗でびっしょりだった。
「落ち着くまでこうしていてあげましょう」数馬はそう言って、彼を撫で続けた。「大丈夫ですよ」と声をかけた。
しばらくそうしていると、だんだんと佐々木の背中が静かになっていった。喘鳴も聞こえなくなり、呼吸も穏やかなものになってゆく。そのうち彼は静かな寝息を立て始めたようだった。を見ながら、じっと考え込んでいた。
数馬も、自分の悩みで頭が一杯だった。佐々木のことが心配ではあったが、自分の悩みに心を奪われていた。ともかく佐々木を斬ることにならず、数馬はほっとした。

数馬は、とりあえず、佐々木を医者に診せようと思い、寝ている彼を起こさないように気をつけながら、そっと立ち上がって部屋を出た。そして屋敷を出て通りに出ると、通りかかった町駕籠に乗り、小石川養生所の榊原医師に往診をお願いしに出掛けた。
榊原は、数馬の話を聞いて、すぐに往診に出掛けてくれた。そして佐々木が喘息の発作を起こしていることを見て取った。
「また弱い者いじめをしておるな」と、榊原は言った。
数馬は驚いて聞き返した。「弱い者いじめ? どういうことですか?」
「おぬしのことだよ」榊原はそう言うと、佐々木の診察を終えた後、数馬の方を向いた。「この男は自害するつもりじゃった」と言った。「いくら死にたいと思っても……おぬしに斬られるのは、おぬしに悪いと思うたのじゃろう。それで死にたいけれど、自害はしたくないと思った。だから死ぬ前に、誰かに斬られることによって殺されようとしたのじゃ」
「えっ?」と数馬は言った。「なぜわたしなどに斬られたいと思ったのでしょうか?」
榊原は首を振って溜め息を吐いた。「この男がなぜおぬしに斬られたいと思うたかなど……そんなことはわしかて知らぬ」
佐々木の喘息は重病であった。これから適切な治療をすれば快癒するであろうが、いずれにせよ命に別状はなかった。数馬はほっと胸を撫でおろした。
榊原が帰った後、数馬は佐々木の寝顔を見ながら考え込んでいた。
「何故わたしに斬られたいと思ったのだろう? まさかわたしを気遣ってくれたわけではないだろうに……自分が死ねば、わたしから解放されるとでも思ったのだろうか……」
夜になって、佐々木は目を覚ました。そして喉が渇いたと言ったので、数馬は枕元の水差を取ってきてやった。咳の発作はだいぶ治まっていたが、まだ体が弱っているようだったので、薬を飲ませたくなかった数馬は、水差から茶碗に水を汲んだ。そして薬袋の中から粉薬を取り出すと、それを茶碗の水に入れて溶かし込んだ。
「さ……佐々木どの……これはよく効く解熱剤です」数馬が言うと、佐々木は苦し気に息をしながら頷いた。彼は咳のせいで声がかすれていたため言葉が聞き取り難かったのであろう。
「これをお飲みなさい。そうすれば熱が下がります」数馬は言った。
佐々木は言われたとおりにした。飲み終えた後、彼は少し楽になったと礼を言った。
「一体なぜ、死にたかったのですか?」数馬は尋ねた。
しかし佐々木は答えなかった。咳き込んでいるだけだ。
「わたしは……」数馬は言った。「わたしの悩みも聞いてくださいますか? お嫌でなければですが」
佐々木は頷いた。彼も誰かに話したいと思っているようであった。だがこんな弱いところを見せてよいのか迷っているような表情で、しばらくためらった後、彼はやっと口を開いた。
「……実は拙者ん家は代々徳川家に仕えてきた旗本なんじゃ。わしは三男坊で家督は継げん。じゃが、小しゃかころ(小さい頃)からずっと、一人前ん武士になりたかて思うておった」
「立派なことではありませんか」数馬は言った。
「いや……それがそうでなかったんじゃ」佐々木は首を横に振りながら言った。「江戸に出てきてからは剣術ば習い、武者修行ん真似事などしとったら……いつん間にかそれが生き甲斐になってしもうたんじゃ……」やがて彼は声をつまらせたかと思うと嗚咽した。そして泣き始めた「愚か者じゃ。それがしは……それがしは……、数馬の足元にも及ばぬ」
「そんなに自分を卑下なさらないでください」数馬は驚いた。
佐々木はしばらく泣いた後、泣き疲れて眠ってしまった。
数馬はその晩、床に就かなかった。佐々木のことが心配だったし、何より自分の悩みも解決しなければならないと思っていたからだ。

黒田武士