「数馬居合伝2」

北添数馬と申します。令和から江戸時代に行ってしまい、居合で江戸時代を生きていく物語です。

2024-02-01から1ヶ月間の記事一覧

(55)北添数馬 外伝「北添数馬の居合道論」

「居合道とは常在戦場である」これは北添数馬の結論だ。平成の時代、八段の先生は「居合道は人生である」とおっしゃっていた。居合道とは、刀によって己が人生を表現しようとする、いわば修行僧の道である。居合道は勝敗を競う競技ではない。道場を主宰する…

(54)北添数馬 外伝「弓道の稽古」

数馬は無心になって矢を放つ。「居合道と弓道とは相性がいいかもしれませんね」先生はにっこりと笑った。実際、居合道と弓道を掛け持ちしている人は多い。数馬は無心に弓を引く。的に中(あ)てるのは難しかったが、心の平穏が訪れるのを感じた。数馬は「射…

(53)北添数馬 外伝「剣道の稽古」

北添数馬は剣道の体験稽古に来た。「剣居一体」という。剣道と居合道の両方を修行することが理想とされる。数馬は剣道着に着替えて防具を身に付けると、最初に小手の着け方を教わった。竹刀を持って相手の面を打とうとしたときに小手が動くよう、手首をしっ…

(52)北添数馬 外伝「心の迷い」

北添数馬は居合の師匠から破門を言い渡された。居合の極意は、ただ一つ。「斬る」ことである。そのためには、精神を統一して心の迷いを捨て、あらゆる邪念を払い、全エネルギーを剣に乗せる必要がある。そして、それは抜き手にあるとも言われている。すなわ…

(51)居合神社

山形県の楯岡に居合神社がある。居合の始祖、林崎甚助重信が祀られており、官営鉄道が開業したら行ってみたい、と数馬は思っていた。神社の隣に振武館という道場が併設されている。そこで居合の奉納演武をするのが、北添数馬の夢なのである。 明治三十四年八…

(50)足尾銅山と古河市兵衛

足尾銅山は江戸時代から銅の採掘・製錬がされていた。明治時代になると渋沢栄一のバックアップもあって、古河市兵衛が「古河鉱業」として、ますます採掘・製錬が盛んになった。公害予防の設備はあったが、まだ技術が追い付いておらず、渡良瀬川に鉱毒水を、…

(49)交通事故と寛解

数馬はぼうっとしていたのか、馬車にはねられ、小石川病院に運ばれた。 「北添さん、元気かね?」小石川養生所の医師だった榊原甚助である。いまは小石川病院の院長をしている。「ああ、ご無沙汰しております。このとおり、元気ではありません…」「全治三か…

(48)秩父事件と檜山省吾

埼玉県の秩父へ向かうのだが…途中、寄居(よりい)の木下(きのした)道場へ立ち寄ることにした。木下道場は「剣術お試し指南」というのをやっている。令和で言えば「体験稽古」である。道場の玄関を開ける。一礼して「お試し指南を申し込んだ、北添数馬です…

(47)よろづ相談処

北添数馬の刀は西南戦争で、人を斬り、西郷の首を刎ねた。刀には刃こぼれがいくつかある。研ぎに出さねば… 研ぎ師に刀を持って行った。研ぎ師が確かめる。「まだ使えますよ」「もう、刀を研いでくれる者もおらぬ。この刀は人を殺めすぎた。研ぎ代はいくらだ…

(46)田原坂

JR鹿児島本線に田原坂(たばるざか)という駅がある。西南戦争の一番の激戦はその田原坂であったという。「雨は降る降るじんばは濡れる 越すに越されぬ田原坂」“明治維新”というが、それをきっかけに何もかも綺麗に切り替わったわけではない。それが士族の蜂…

(45)鉄道会社の呪いを解く

北添数馬のところへは棟上式や地鎮祭で居合をやって欲しいという依頼が舞い込むようになった。幽霊退治をしたが、それが噂になっているようだ。「あんまり、目立ちたくなかったがな」幽霊が出なくなった理由は3つ考えられる。・数馬の居合が魔除けになった…

(44)幽霊退治

湯島のある民家に、彰義(しょうぎ)隊士の幽霊が出るという。その民家は一年前に建てられて、夫婦が住んでいる。なぜ彰義隊士と分かったかといえば、「彰義隊士、阿部十内」と名乗ったという。夫婦は怖がり、家を売りに出したが、買い手はついていない。そ…

(43)陸蒸気

明治五年十月十四日、新橋から横浜まで鉄道が開業した。北添数馬はさっそく乗りに出掛けようと思ったが、しばらくは混雑すると思われたので、半年後にした。実は陸蒸気に乗りたいと言ってきたのは、山岡鉄舟なのである。この頃、鉄舟は、西郷のたっての依頼…

(42)花火大会なのに線香花火

大川(隅田川)花火大会は、毎年、湯長谷藩士の笠井源之助と、浴衣で見に行っていたが(※「(15)大川の花火」参照)、笠井と音信が途絶えた頃から花火はご無沙汰している。その笠井が数馬の「北添道場」へひょっこりやってきたのである。ちなみに数馬の十歳年…

(41)大雪2

東京は大雪に見舞われた。北添数馬は長屋の住人たちと雪かきをしてから、北添道場へ向かった。道場も雪がうず高く積もっている。ひとり熱心な門弟が雪かきをしてくれていた。橋野金吾という。「北添先生、おはようございます」「橋野さん、おはよう。ありが…

(40)門弟たちと梅を観にいきました。

北添数馬は北添道場の門弟たちと梅を観に行くことにした。場所は世田谷の六郎次山(現在の羽根木公園)である。そこは梅の名所として知られていて、特にしだれ梅が綺麗だという。なぜ「梅」にしたか… これは数馬の経験であるが、暑気払い、忘年会、新年会と…

(39)門弟を破門したこと

数馬はある門弟が気に入らなかった。「心」ができていないのである。これから成長する見込みがあればまだましだが、その気配もない。 居合が下手でもいい。「下手の横好き」とも言う。好きでやっているなら、それでいいと思っている。「好きこそ物の上手なれ…

(38)特別講師、山岡鉄舟

北添道場で教えるのは、居合の術技だけではない。人生はどうあるべきか、考えることを門人に教えている。ときおり、講師に山岡鉄舟を招いている。ちなみに当道場の顧問である。 「山岡先生は、武道と人生についてどう考えておられますか?」北添道場の門人の…

(37)北添道場、危うし

北添数馬はささやかな道場をやることにした。数馬は「居合指南 北添数馬」という看板を道場の外に掲げた。この看板は山岡鉄舟が揮毫した。さて、入門者は現れるのだろうか。また、道場がうまくやっていけるのだろうか。しかし数馬はまったく心配をしていなか…

(36)山岡鉄舟

数馬は会いたい人物がいた。山岡鉄舟である。居合について何か聞きたかった。何でもいい。山岡鉄舟先生に会いたい!その達人といわれる鉄舟の稽古法を聞いてみたかったのである。「忙しいお方だから、会うのは難しいだろう」と、剣友は言う。しかし数馬はど…

(35)新選組風雲録

ある日… 北添数馬が屯所で休んでいると、沖田総司が、「北添さん、あれ見せてくださいよ、あれ!」時代劇や時代小説など、沖田総司はやんちゃな感じで描かれているが、そのとおりであった。彼は労咳を患っている。しかし気丈に明るい。「北添さん、居合、得…

(34)新選組入隊試験

史実では、新選組に入隊試験はなかったとされている。とりあえず募集し、適性に合わなかったら「除隊」ということだった。 しかし、数馬が新選組を訪れたときは、試験があった。剣術の実技と読み書きである。勘定方の候補には、算盤の試験も用意されている。…

(33)奄美大島へ…

北添数馬は、西郷隆盛に会うため、奄美大島へ行く船に乗っている。鹿児島を出た時点では揺れはほとんど無かったが、次第に揺れてきた。数馬は乗り物が苦手である。船もダメだが、駕籠も馬も酔ってしまう。整形外科にある乗馬マシンはいくら乗っていても大丈…

(32)人斬り半次郎

「人斬り半次郎」として恐れられた薩摩の中村半次郎(桐野利秋)。数馬にとってはどのような剣を遣うのか、大いに気になる。そんな数馬の視線に気づいたのか、半次郎が振り向いてにいっと笑った。「おいどんの剣は薩摩じゃと、ないもんを遣うからごわす」「…

(31)福沢諭吉

豊前(ぶぜん)の中津藩に居合の名人がいるという。数馬はさっそく中津へ向かった。中津藩内に道場を見つけると、さっそく入門し、稽古をする。聡明な顔つきの若者がいる。師範は「福沢。居合を数馬に見せてやれ」と言った。福沢諭吉(立身新流)は「はっ」…

(30)岡田以蔵

岡田以蔵(おかだいぞう)は土佐の出身である。以蔵は子供のころから剣術が得意だったらしく、十歳のときにはもう藩の道場で師範代をつとめていたという。数馬は居合の修行で、土佐を旅していて、土佐藩の道場を訪れた。岡田以蔵は師範代として居合を教えて…

(29)風邪

数馬は体がだるい。熱もあるようで、この時代に体温計はないが、三十八度くらいあるだろう。おまけに喉も痛い。鼻水も止まらない。頭痛もするし、食欲もない。厠に行くとき、体がふらふらする。数馬は江戸時代の居合を求めて、東海道を旅していた。ちなみに…

(28)東海道、川崎宿にて

数馬は東海道を南に向かって歩いている。品川をでて、次は川崎だ。刀の柄には柄袋をつけ、左側を歩いている。武士は左側通行である。そうしないと、すれ違ったときに「鞘当て」といって、お互いの鞘がぶつかって、喧嘩の原因になる。居合道の大会や審査でも…

(27)仇討ちの助太刀

津山藩士の田野倉新之助が北添数馬の長屋にやってきた。長屋の部屋で酒を酌み交わす。「田野倉さん、津山ですよね。津山といったら箕作阮甫(みつくりげんぽ)先生ですね」と言ったら、「そうなんです。嬉しいです。箕作先生は亡くなりましたが、門下生だっ…