「数馬居合伝2」

北添数馬と申します。令和から江戸時代に行ってしまい、居合で江戸時代を生きていく物語です。

(24)二人とも暇です。

かごめ かごめ
かごのなかのとりは
いついつでやる
よあけのばんに
つるとかめがすべった
うしろのしょうめんだーれ

北添数馬が長屋で金魚鉢を眺めていると、外で遊んでいる子供たちが歌うのが聞こえてくる。
いつも同じなので、歌詞を覚えた。
「いついつでやる」がどうしても「いついつJR」に聞こえるのだが。

同心の鶴見源之丞がやってきた。
「北添さん、何か面白いことはないですかね?」
鶴見も、非番のときは、暇らしい。鶴見は金魚鉢の金魚を眺めている。
鶴見が金魚鉢に触ると、金魚が寄ってくる。誰がエサをくれるか、金魚は分かるらしい。
「北添さん、金魚にエサはやりました?」
「きょうはまだです」
「私がエサをやりましょう」
と、鶴見がエサを金魚に与える。クチボソもタナゴも寄ってくるが、テナガエビは面白くなさそうに水底にいる。いつもそうだ。

鶴見と数馬が寝っ転がる。何をするわけでもなく、二人で天井を眺める。

「鶴見さん。同心って面白い?」
「うん、あまり面白いかどうか、考えたことがないな」
「面白いか、面白くないかでいえば?」
「うーん、非番の日に一日寝られるから、あまり面白くはないのかもしれないな」
「北添さんは、居合の道場、面白い?」
「う~ん、強いていえば、門弟たちが面白いかな」
「門弟たちが?」
「そうそう、そうなの。道場の中では真面目なのだけど、稽古以外のことになると、けっこう羽目を外す門弟がいて、それが面白いかな。飽きないよ。居合よりも」
「居合は飽きる?」
「うん、あまり大きな声じゃ言えないけど、同じ形を繰り返し修練するだけだからね~ 門弟の面白さに助けられている感じかな。門弟に教えなきゃ、なので、自分で勉強することはよくあります」
「私も居合、やろうかな」
「是非。北添道場でみっちりやりましょう! 待っています。こんど、十手術を教えてくださいよ」
「いいですよ、十手。みっちり教えますよ」
「ありがとうございます!」
金魚が水底から上がってくる。エサが食べたいらしい。鶴見が与えてやる。
「鶴見さん、私の金魚に名前とかつけているのですか?」
「うん、つけていますよ」
「どんな名前ですか?」
「例えば……かぐや姫とか……」
数馬は笑いそうになるが、なんとかこらえる。そして、天井をまた眺めるのだった。

(23)安政遠足(あんせいとおあし)

北添道場の門弟が、これは鍛錬になると、情報を持ってきた。
上州の安中(あんなか)藩がやっている、「安政遠足」である。
“遠足”とは、「とおあし」と読み、令和で言う「マラソン」のことである。

「この遠足(とおあし)は安中藩士がやるんじゃないの?」
「はい、そうなのですが、藩士以外の参加者を募っているのです」

「私は参加を遠慮しておく。応援には行くから、参加者を門弟で決めなさい。手続きは私がやるから」と、数馬は言った。
さらに付け加えて、
「この遠足は大変だぞ。要項を読んだが、中山道碓氷峠(うすいとうげ)を上るんだぞ」
碓氷峠がどれだけ大変な場所なのか、門弟は知らない。

北添道場の参加者は松野金吾と滝田鶴之助。二人とも江戸から外へ出た事がない。

中山道を北上し、安中宿で前泊した。令和の刻限にすると、安中城を午前九時に出発するという。

安政遠足は安政二年、安中藩主の板倉勝明が藩士を鍛練する目的ではじめた。安中城内から碓氷峠熊野権現までの七里(およそ28㎞)余りを走るもので、力餅が賞品として走者に配られるという。

さて、安中城である。ざっと見たところ、参加者は百人ぐらいである。みな参加者は武士ばかりだ。
「松野さん、滝田さん、頑張って。横川(よこかわ)の関所を出ると碓氷峠だから、関所までは体力を温存しておいたほうがいいでしょう」と、数馬はアドバイスする。
藩主が打ち鳴らす太鼓で出発した。
門弟二人が遠足の稽古をしていた気配はない。大丈夫なのだろうか。
無事に戻ってくればいい。そう思う数馬である。

以下、参加した門弟の松野金吾の報告である。

やはり横川の関所を過ぎて急坂になった。落ち葉が積もっていて、足を滑らせた。予備の草鞋を持っていって正解だった。峠への道は走るのは無理で、同じく門弟の滝田鶴之助と支え合いながら熊野権現にたどり着いたという。

参加した二人は、
「これが賞品の力餅です」と、数馬に餅を見せた。
「よく頑張った。北添道場の誇りだ!」と数馬。
それよりも、足の指をかなり痛めたらしく、二人とも足の指から出血している。
滝田は、
「この力餅、江戸までもつでしょうか? 江戸に着く前にカビが生えるんじゃ…」
「そうだな。旅籠(はたご)の女将(おかみ)に話して、焼餅にして食べてしまうか!」と、数馬。
旅籠に着き、足の「すすぎ」を持ってきた女将は、二人の出血した足を見て、吃驚(びっくり)している。
「まあまあ、これは大変ですわ」
「女将さん、焼酎をいただけますか?」と数馬。
「いまお持ちします」
数馬はあまりやりたくなかったが、焼酎を口に含み、二人の門弟の足の指に焼酎を吹きかけ、手拭で拭った。
「これで大丈夫でしょう」と、数馬は自信をもって言う。
女将はしきりに感心しながら、二人の足に塗り薬をつけ、旅籠で炊いている赤飯を分けてくれて、二人をいたわった。
「女将さん、この力餅を焼餅にしてください」と、数馬は頼んだ。
女将は承知して焼きたての焼餅を作って持ってきた。
この力餅は、二人の賞品である。数馬は我慢したが…
「先生、少し食べてください。美味しいですよ」
と、滝田と松野が勧めてくれた。美味しい焼餅だった。

熊野神社 長野県北佐久郡軽井沢町峠町1番地 標高1200m 神社が群馬と長野の県境にまたがっていて、賽銭箱が二つあります。

安政遠足」横川にて。平成6年5月8日筆者撮影

 

(22)愛宕神社の石段

北添道場の門弟から提案があった。
愛宕(あたご)神社の石段を上りませんか。足腰の鍛錬になると思います」

というわけで、門弟の参加者は半分だが、出かけることにした。
愛宕神社は「桜田門外の変」で水戸浪士らが集結した場所である。愛宕山の山頂にある。

待ち構えていたのが神社へ通じる男坂の急な石段である。これは「出世の石段」とも呼ばれている。由来は、徳川家光が家臣に愛宕⼭に咲く梅の花を馬に乗って取ってくるように命じたところ、丸亀藩曲垣平九郎が馬でそれを成し遂げたことによる。 
この石段、かなり急である。上を見上げれば背中から落ちそうになるから、ともかく必死になって上らねばならない。

「先生、頑張ってくださーい!」
門弟のひとりがそう声をかけて、数馬を追い越していく。

息を弾ませながら石段を上り終えると、門弟は「もう一回行ってきます」と石段を下りていった。若いってのは、いいね。
山頂の標高は二十六メートルで、江戸では最高地点である。江戸湾や房総半島まで見渡すことができる。

神社を参拝し、「さて下りるか」というところだが、急な石段を見下ろした瞬間、震えがやってきた。バランスを崩そうものなら、そのまま八十六段、一気に転げ落ちることは間違いない。実は膝を痛めている。このところ痛みはないのだが、いつ激痛に見舞われるか分からない。 
結局はゆるやかな「女坂」で下りてきたが、やはり足の動きがぎこちない。

「このまま、桜田門に行ってみるか!」
と、数馬は提案する。

令和では官庁街だが、武家屋敷ばかりである。
桜田門を眺めて、いざ帰ろうというとき、武士の一団から声をかけられた。

「待て。我らは彦根藩の者。姓名を名乗ってもらおう」

桜田門外の変があってから、彦根藩ではかなり警戒を強めている。

「北添道場、師範、北添数馬」
「本所源助長屋 左官、駒吉」
日本橋呉服商、手代、和助」
「府中藩 猪谷万三郎」
「御小人目付 真鍋平九郎」
「上州無宿 紋太郎」

彦根のご家中、これでよいかな?」と数馬。
「まさか、御小人目付殿がおられるとは、いやいや失礼。どうぞお通りくだされ」
「それはご苦労であったの」と数馬

ちなみに御小人目付(おこびとめつけ)とは…
江戸幕府の職名の一つ。 目付の支配に属し、幕府諸役所に出向し、諸役人の公務執行状況を監察し、変事発生の場合は現場に出張し、拷問、刑の執行などに立ち会ったもの。 また、隠し目付として諸藩の内情を探ることもあった。”

「真鍋さん、助かりましたよ。私の方針で、身分素性は聞かないことにしているのですが、幕府のお役人様とは…」
「先生、今日は楽しかったです。役人が役人を監視するというのは、かなり疲れるんです。報告が少ないと“仕事をしているのか! 昼行灯!”と言われ…」
「そうですか…… 大変ですね」

数馬は、いまのままで良いと思った。

愛宕神社 東京都港区愛宕1-5-3

愛宕神社の石段 (幕末の写真)

 

(21)餅つき

北添道場では新年になったら「餅つき」をやる。そして頑張った門弟を一人選んで、刀の手入れ用具を授与する。
餅つきの道具は数馬が古道具屋で購入した。あらかじめ門弟たちには各自一合の餅米を持ってきてもらい、数馬が準備する。そして、門弟たちに餅をついてもらうのだ。

北添道場の恒例行事は、この餅つきだけである。あとは門弟の思い付きで、物見遊山に出掛けることがある。

さて、もち米が蒸しあがり、門弟も揃った。臼に餅米を入れて、門弟が、「よいしょ! よいしょ!」と声をかけて杵でつく。「合いの手」は数馬がやる。いろんな人物が手を入れるのはあまり良くないだろうから。
年に一度だが、門弟たちとの共同作業を数馬は大切にしている。
暑気払いや忘年会もいいが、酒が飲めない者は楽しさが半減してしまうし、職場でもやるだろうから、それと重なるのも良くない。

「よいしょ! よいしょ!」とみんなで声を合わせて、餅をついていく。適度な回数で、門弟同士で交代する。
「よーし、ついた!」と数馬が臼から杵を抜き取り、餅を持ち上げた。もち米のいい匂いがあたりに充満している。
「これを丸めて、餅にするぞ!」と数馬が言う。
餅を丸める作業も門弟たちが手伝う。丸めた餅は道場の台所に運ばれていく。
つきたての餅を数馬が一つ食べた。熱くて柔らかい。神棚にも忘れずに。
門弟たちも餅を食べる。あんこやきな粉はお好みで。

「先生。この餅、美味しいです!」と門弟が言ってくれた。
「そうか! 良かった」と数馬も喜ぶ。
「先生。この餅、つきたては格別です」と別の門弟が言ってくれた。
数馬も餅を食べ、茶を飲んだ。
「うん。美味い!」と数馬も思う。
そして、門弟たちと一緒に笑う。
「そうそう。この餅を食い終わったら、道場の掃除もしてもらうからな」と数馬が言った。
「えーっ!? 今からですか?」と門弟たちが驚く。
「そうだ! 新年だからな! もちろん私もやるが」と数馬が言い、「はい!」という門弟たちの元気な声が道場に響いたのだった。

「掃除の前に、“頑張り賞”の授与です。今回は遠藤新平さん! 昨年はよく頑張りました。よって、刀の手入れ用具を授与します。みなさん拍手!」

数馬と門弟たちが拍手する。
じつは、この“頑張り賞”、毎年違う門弟に授与している。ということは、数年で全員が貰える、という仕掛けになっている。刀に塗る丁子油(ちょうじあぶら)はそんなに減らない。ぽんぽん(打ち粉)も、毎回使うわけではない(砥石の粉なので半年に一度が良い)。なので、毎年同じ門弟に授与すると、かえって顰蹙(ひんしゅく)かもしれない、と、数馬は思っている。

 

餅つき

 

(20)鶴見源之丞の恋

同心の鶴見源之丞。独身である。数馬は令和に妻子がいるが、江戸時代では独身みたいなものである。
その鶴見が数馬に、

「女が喜びそうなものは何でしょうね」

と聞いてきた。
どうやら彼女がいるようだ。

「簪(かんざし)を差し上げるというのはいかがでしょう。そして、こう言うのです。“この簪をつけた○○殿と、浴衣姿で大川の花火を見たいなあ”と。きっと女性は、夏の思い出を作りたいものですから、“はい”と返事をすることでしょう」
「なるほど!」
「簪でなくても良いのです。何か心のこもったものをひとつ差し上げ、思い出を共有する。これが王道だと思いますよ」

さっそく鶴見は実行に移した。小間物屋さんで簪を買い、それを彼女にあげ、鳥越神社の縁日に行く約束をしたとのこと。

「いい調子じゃないですか、鶴見さん。鳥越神社の縁日が楽しければ“縁日、楽しかったわ”となって、“大川の花火に行きたいわ”って、つながるじゃないですか」
「そうだな!」
実はこのアドバイスは数馬の経験ではなく、友達のパターンである。数馬の場合は喫茶店で話していることが多かった。つまり、数馬のなれそめは喫茶店での会話、である。
とある出版社から、ある地域の「デートスポットを書いて」と提案があったが、数馬が書くと、喫茶店めぐりになってしまいそうだ。

さて鳥越神社の縁日である。
鶴見が報告してきた。楽しかったらしい。

「鶴見さん、うまくいっているじゃないですか」
「ああ、北添さんのおかげだ。縁日の帰りは、茶店で会話を楽しんだよ」
「次は何か予定があるの?」
「日暮里(にっぽり)の羽二重団子を食べようと」
「私もその団子屋さんに行ったことがありますが、美味しかったですよ。薬丸印五つ……じゃなかった、太鼓判を押しますよ」

羽二重団子。
さっそく鶴見が報告しにきた。

「北添さん、大成功だった。甘いものが好きらしいんだ。何かいいのがないかなあ」
「これはどうでしょう。“切腹最中”と“義士ようかん”。新橋の新正堂というお店で売ってますよ」
「それって、北添さんが食べたいんでしょ」
「正解! 特にようかん。四十八個揃えたいんだよね」
「彼女、忠臣蔵、好きなのかなあ」
「もし好きだったら、次は泉岳寺ですね。好きじゃなかたら、カステラとか金平糖をあげるとか」

鶴見は、彼女と忠臣蔵のお芝居を観た。面白かったというので、“切腹最中”と“義士ようかん”をあげたという。
ここまでは良かったのだが!
……彼女は上州の実家に帰って、地元の男性と結婚することになったのだという。

何となぐさめてよいものやら…


※鳥越神社 東京都台東区鳥越2-4-1
※新正堂 東京都港区新橋4-27-2
※羽二重団子 東京都荒川区東日暮里5-54-3

羽二重団子

 

(19)「暇乞(いとまごい)」

同心の鶴見源之丞が遊びに来た。
数馬が飼っている金魚が気に入ったらしく、エサを与えていいか、聞く。きょうはまだ与えていないので、「いいですよ」と答え、鶴見にエサを渡す。エサを与えると、金魚やタナゴ、クチボソが寄ってくる。テナガエビだけ、面白くなさそうに水底にいる。それらを鶴見は飽きないのか、ずっと眺めている。

「そうそう、北添さん、お願いがありまして」
「え? 何でしょう」
奉行所の道場で、居合をやってもらえませんか? ほら、先日見せてもらった「暇乞」でしたっけ、お辞儀をしたところを斬るやつを是非!」
「なぜ、暇乞?」
奉行所の同心連中、みんなお辞儀に騙されるから! それを見てみたいんだよなあ!」
「暇乞って、三種類あるんですよ。どれがいいかな~?」

・正面に向かって正座をし、頭を少し下げ、礼をかわす間をおかず、うつむいたまま一気に抜刀、上段より敵の正面を斬り下ろす。
・両手をつき頭を低く下げ、その体勢にて抜刀、敵が頭を下げるところを斬る。
・両手をつき深々と礼をして、体を起こしながら抜刀、敵が頭を上げるところを斬る。

「そうですね~ やっぱり“頭を上げるところを斬る”がいいかな。三番目」
「ではそうしましょう。他にご希望は?」
「お任せしますよ。それにしても、タナゴ、でかくなったんじゃないか? フナみたいにならないのか?」
「ならない、ならない!」

日を改めて南町奉行所へ出向いた。門番に名前を告げると、鶴見源之丞が出迎えてくれた。ちょっと格が上がって、“筆頭同心”である。同心のリーダーだ。

道場に案内される。すでに四十人ぐらい集まっている。みな正座している。数馬は一礼して中に入っていく。

「北添数馬と申します。これから居合を三本やります」

まず「携刀姿勢」となる。そして「神座(しんざ)への礼」をし、袴を捌いて正座をする。「刀礼」をして剣心一体の心境となり、下げ緒を結束する。

「まず、“初発刀(しょはっとう)”をやります。居合の基本かつ奥義の技です」

正座した姿勢から、相手のこめかみに抜き付け、さらに真っ向から切り下ろす。

「次に“顔面当て(がんめんあて)”です」

正面の敵の顔面に激しく柄当てし、後ろの敵の水月を突き、正面の敵を切り下ろす。

「この技は気を付けないと… 刀が鞘ごと体から抜けてしまったり、袴に鞘が入ってしまったり、実は失敗しやすいのです」
その失敗例を実演すると、笑いが起きる。
「柄を顔面に当てるというのは、捕り物でも使えると思います。相手はまさか刀が飛び出してくるとは思っていないから、効果があると思います」

「次に“暇乞(いとまごい)”です」

両手をつき深々と礼をして…

礼をしたので、見学者全員が礼をした。礼をしないのは、この技を知っている鶴見だけである。

「みなさん、騙されましたね。私がお辞儀したので、お辞儀しましたね。そして頭を上げますよね。そこを切る技なのです」
鶴見は同心のみんなが騙されている姿を見て、笑いをこらえている。

「もう一度やります」

両手をつき深々と礼をして、体を起こしながら抜刀、敵が頭を上げるところを斬る。

「実は、私もこの技を教わったとき、お辞儀で騙された! と思ったのです」

鶴見「北添さん、ありがとうございます。また機会がありましたら、ぜひ違う技も見せてください」
「鶴見さん、また何か面白い体験がありましたら是非」

と、奉行所を後にした。

 

 

「暇乞」つられて礼をすると斬られます!

 

(18)犬の散歩

口入屋の紹介で、犬の散歩である。
北添数馬は大の犬嫌いである。それは犬にも伝わるようで、よく吠えられる。鉄道紀行作家の故・宮脇俊三氏もそうである。
もちろん、犬の散歩など、やったことがない。

預かった犬は、秋田犬の仔犬である。仔犬だから元気がいい。犬の名前は「ししまる」。
口入屋の主人曰く、町内を一周すればいいでしょう、とのこと。

なぜ、犬には散歩が必要か。
まず、ストレスの発散、そして犬が持っている「探求心」を満たすことである。
ちなみに数馬の長屋は動物を飼うことは禁止されている。以前、猫を二十匹も飼っていた浪人がいて、その浪人は亡くなってしまい、残された猫の糞尿や匂いがひどく、その始末が大変だったとのことである。

数馬は道々「ししまる」にいろいろなことを話しかけてみたが、返ってきたのは「ワン!」という吠え声だけ。どうも数馬の言っていることは犬には理解できないらしい。
犬を散歩させるのは、そう簡単ではない。数馬はそのことを思い知らされた。
「ししまる」は、あっちにうろうろ、こっちにうろうろ。そのたびに、数馬は「ししまる」の首輪をひっぱって引き戻さなくてはならないのだ。
しかも「ししまる」ときたら、あっちで「大」をして、こっちで「小」をするのである。おかげで数馬の袴は汚れてしまった。帰ったら洗濯して、火熨斗(ひのし・アイロン)をしなければ…
単に散歩の仕方が下手なのだろう。令和の時代に居たころ、住宅地で犬の散歩をしている人をよく見かけたが、足元を汚している人はいなかった。

数馬が犬の散歩をしているのはかなり珍しいらしく(珍しいのだが…)、近所の人が、
「北添さん、犬のお散歩ですか。可愛い犬ですね」
「北添さん、犬を散歩させているのではなく、北添さんが散歩させられているみたい」
とか、声をかけてくれる。普段も声をかけられやすいが、犬はコミュニケーションのアイテムにもなる。
中には、
「北添さん、ご精が出ますね」
などと言ってくる人もいた。
散歩のコツを摑めないまま数馬と「ししまる」は歩き続ける。しかし「ししまる」の気ままな歩みに引きずられて、とうとう町内から出てしまった。
「おい、ししまる、そっちじゃない!」
数馬はあわてて首輪を引っ張る。犬は「主従関係」を常に意識している。数馬がリードしないで、犬が「主」になると、言うことを聞かなくなってしまう。まあ、少しの散歩なので、大丈夫だと思うが。

「ししまる」の綱をしっかり握り、数馬は歩き出した。
少し歩くと、畑や田んぼに囲まれた小さな神社があった。神社にお参りし、お賽銭を投げ入れておいた。
「ししまる」の綱を引き、帰ろうとすると……
数馬は遠くで犬が鳴いている声を聞いた。それも一匹ではない。複数の犬の鳴き声だった。どうやら何かトラブルが発生したらしい。
数馬と「ししまる」は鳴き声の方に向かった。
数馬と「ししまる」が鳴き声のした場所に近づくと……
そこには、数頭の犬がいた。そして、その犬たちに吠えられているのは……
(あれは、武士かな?)
年齢は三十代半ば。着流し姿で刀を差している。髷を結っているが、総髪で後ろに流している。色白で眉が細く、細い目から覗く瞳が鋭い。
数馬は犬たちの前に立ちふさがり「ししまる」を背後にかばいながら、
「あんた、ここで何をしているんだ!」
武士は数馬と「ししまる」に気がつき、
「これは失礼つかまつった。拙者は……」
武士が名乗ろうとしたとき、犬たちが一斉に吠え始めた。
「ワンワンワン!」
「ウーッ、ワンワンワン!」
「せ、拙者、い、犬飼犬次郎。犬は苦手でござる…… 助けてくだされ」
どうやら犬に囲まれて、身動きがとれないようであった。

獅子丸はチャウチャウです。