「数馬居合伝2」

北添数馬と申します。令和から江戸時代に行ってしまい、居合で江戸時代を生きていく物語です。

(11)大雪

江戸時代は寒冷で、「小氷期」と呼ばれる気候であった。忠臣蔵桜田門外の変でも大雪だ。浮世絵を見ても、雪景色が多い。インターネットで画像を検索すると出てくる。
令和の時代では1センチ積もっただけでも転倒者が続出し、数馬も大雪警報が出ると、心配で不安になる。転倒して骨折するパターンが怖い。

数馬は、やっぱり江戸時代は雪が多いな、と感じている。住んでいる長屋はもちろんのことだが、道場も雪かきをしなければならない。雪のせいで稽古が休みになることはないが、寒さは堪えた。
大雪の翌日、長屋の雪かきを長屋の連中と済ませたあと、道場へ行った。師範がすでに雪かきをしている。
「お、北添。雪かきをしてくれたのか」
「はい」
師範は雪かきを終え、庭で火鉢に当たっている。数馬も火鉢の前に座った。師範が手拭いを水で濡らして絞り、渡してくれた。数馬はそれで顔を拭く。
「今日くらいは稽古を取りやめにしてもいいのだがな」
と師範が言ったので、数馬は少し意外に思った。いつも師範は天候に関係なく朝稽古を行うのが当然と考えているように見えたからだ。
「師範は、天候が悪ければ稽古を取りやめるとお考えですか?」
「そうだ。いつもやっていることをわざわざ今日やることもない」
数馬は雪かきを終えた道場を改めて見回した。広い板敷の間に火鉢が置かれ、そこで師範と北添が温まっている。庭はまっさらで、新雪に覆われている。風が吹くたびに屋根から雪が滑り落ちてきた。だが、それほど激しい降りではないようだ。これなら昼ごろまでにはやんでいるかもしれない。
「昼から、雪かきをして参ります」
と数馬は申し出た。師範は少し考えるような仕草をしたが、やがてうなずいた。
「そうだな。頼んでもいいか? わしは道場へ出る」
数馬はうなずき返した。師範に稽古をつけてもらえるのはうれしいことだった。朝稽古が終わってからも、その熱が持続するからだ。
「では、さっそく行ってきます」
「ああ、頼んだぞ」
道場を出るとき、数馬は雪雲を見上げた。まだ風は吹いていない。だが、雪雲は少し厚くなっていた。
夜になると雪はさらに降り積もるかもしれない。
数馬は長屋に戻り、一眠りすることにした。起きたのは昼前だった。すでに風は吹き始めていて、時々、強い風が吹く。雪雲はさらに厚くなり、今にも雪が降り出しそうだった。
「さて、始めるか」
と数馬はつぶやき、まだ新雪に覆われた道場へ向かった。板敷の間には火鉢がひとつ置かれていて、師範が火にあたっていた。数馬を見ると手招きする。数馬は板敷の間に入り、師範の隣に座った。
「わしは昼から出ない。おまえとふたりきりだ」
と師範が言った。はい、と数馬はうなずく。ふたりだけで稽古できるのかと思うと心強くなった。
師範が数馬に「北添! 居合を見せてみろ」と言う。
「はい」
と数馬は返事をして立ち上がった。道場の片隅にある刀架から自分の刀を取り、それを持って戻る。袴を捌いて正座した。師範は数馬の居合を見るのは初めてだ。

「背筋を伸ばして丹田に力をこめ、両肩の力を抜いて胸は自然に張る。うなじを伸ばして頭をまっすぐにし、両手を自然に置く。目は四~五メートル先の床上に向け、半眼に開いて遠山(えんざん)の目付となり、気は四方にくばる。」
「演武はすべて、充実した気勢、正確な刀法、適法な姿勢、いわゆる『気・剣・体の一致』を心がけ、全身全霊を打ち込んで真剣勝負の心境で『行ずる』心がけが大切である。」
(いずれも『全日本剣道連盟居合・解説』より)

数馬は刀礼をし、帯刀した。下げ緒を袴の紐に結ぶ。
ここまでの所作で、師範は「ほほう!」と言う。数馬は五本の技を演武した。あまり沢山やると、やっているほうはいいのだが、見ているほうは意外と飽きるものである。殺陣のようにダイナミックでない。
また、審査も試合もたいてい五本なのである。もしかすると五本以上やると、審査員も審判の先生も飽きるのかもしれない。冗談だが。

「さすがによく刀を抜くな」
と師範は感心したように言った。数馬は一礼して下がる。再び居合の所作が始まった。師範は息をするのも忘れて見入っていた。
演武が終わったあと、師範が数馬に「いまの演武に満足か?」と聞いた。はい、と数馬は答える。
「では、なぜ満足なのだ?」
「あまり激しくないからです」
「うむ。そうか」
師範はうなずき、しばらく何か考えているふうだったが、やがて口を開いた。
「だがな。わしが思うに、演武というものは見た目も大事ではないか?」
数馬は姿勢を正し、答えた。
「確かにそうです。ですが、居合とは真剣勝負です。なるべくなら早い斬りつけのほうが勝ちます」
「それはそうだが」
と師範は言った。そして、
「わしはおまえの刀を見たいと思ったのだが」
「はい」
数馬は鞘から刀を抜いた。刀身がきらりと光ったような気がした。師範も刀に目をやった。
「美しい刃文だな」
と師範は言った。数馬はありがとうございますと言ったが、正直なところ、美しいのかどうか数馬には分からない。いつも稽古に使っている刀であるし、鑑賞に関しては疎いのだ。ただ切れ味は鋭いと思っているだけである。
「北添。おまえ、居合の技を何ほど使える?」
「すべてです。奥伝まで」
と数馬は素直に答えた。このくらいの質問は想定内だ。しかし師範はさすがに驚いたようだった。
「すべてだと? それは凄いな!」
そして、師範は少し考え込んだあと、こう言った。
「わしにひとつ、技を見せてくれぬか?」
(技はさっきやったでしょうに…!)
「どのような技でしょうか」
数馬は内心の期待を抑えながら聞き返す。
「そうだな……」
師範はまた考え込んだ。この人は見かけによらずせっかちだなと数馬は思う。いや、せっかちというより思慮深いのかもしれないが、いずれにせよ見た目より慎重だ。だから剣術の道場などやるのだろう。
ようやく師範が口を開いたとき、すでに数馬は考えていた。奥伝か? それとも秘太刀か?もっと凄い技を見せろと言われるかもしれない。
「居合で斬るにはどうすればいい?」
「はい」
数馬は師範の意図がよく分からず、首をかしげた。
「どんな形でもいい。この火鉢を斬ってみよ」
数馬は驚いたが、同時に内心ではがっかりした。奥伝でも秘太刀でもなかったからだ。だが、そんなこと顔に出してはいけないと自分を戒める。とはいえ少し返事に間が空いてしまったが。
「……分かりました」
と答えて立ち上がる。居合に斬れ味の美醜はない。ないが、形にはこだわったほうがいいだろう。
数馬は刀を上段に振りかぶった。火鉢を見据えて、一歩足を踏み出すと同時に刀を振りおろす。そのまま刃先が火鉢を直撃し、二つに割る……という狙いだった。
だが、それが失敗した。
「失礼いたしました」
と言って下がると、師範は大笑いした。腹を抱え、身体をふたつに折って笑っている。
「なるほどな。斬れないわけだ」
と笑いすぎて目尻に浮かんだ涙を、師範は指ですくう。数馬はぽかんとしていた。なぜ笑われているのかが分からないし、どこがそんなにおかしかったのかも分からないのだ。
「もういい」
と師範が言ったので、数馬は刀を鞘に収める。そして板敷の間に正座した。だが、師範はまだにやにや笑っていた。居合がそんなにおかしいのだろうか? いや、それとも自分は何か間違ったことをやったのだろうか?
「わしが悪かった」
と師範が言った。まだ笑っている。
「居合とは奥深いな」
と師範は言った。その言葉が数馬にとっては最大の賛辞だった。数馬は嬉しくて仕方なかった。

お茶の水 雪中の美人 絵:歌川広重