「数馬居合伝2」

北添数馬と申します。令和から江戸時代に行ってしまい、居合で江戸時代を生きていく物語です。

(52)北添数馬 外伝「心の迷い」

北添数馬は居合の師匠から破門を言い渡された。居合の極意は、ただ一つ。「斬る」ことである。そのためには、精神を統一して心の迷いを捨て、あらゆる邪念を払い、全エネルギーを剣に乗せる必要がある。そして、それは抜き手にあるとも言われている。すなわち「抜刀術」による抜き手で相手を叩き斬ることこそが目的なのだから、後ろ上段か横斬りによる攻撃が基本である。
しかし数馬は自らの心の迷いを捨てきれず、常に邪念に囚われて抜き手が定まらず、不必要なまでに力を込めて剣を空振りしていた。
「精神の統一は剣術の基本じゃが、これはなかなかに難しい。しかし居合というものはその基本を極めねば修得できぬ。今のお主では一生かかっても無理じゃな」
師匠はそう言って数馬の破門を決めたのである。
その後、数馬は失意のうちに故郷を去った。そして江戸に出て、同じ流派の流れを汲む別の流派に入門する決意をした。その師匠が江戸で道場を開いており、そこに厄介になることにしたのである。
師匠は数馬の抜き手を一目見て「邪念だらけじゃ」と吐き捨てた。
「お主、居合を何と心得ておるか?」
数馬は無言でうなだれた。抜き手が定まらない原因は自分でもよくわかっているが、それをどう克服してよいのか皆目見当がつかないのだ。
「居合は武の道を極める唯一の方法。迷いを捨てよ。迷いがあれば剣筋も鈍ろう「迷いを捨てる……」

数馬は唸った。自分は己の心の弱さに負けたのだ。剣は心に映し出されるものと聞く。自分の心を映し出す剣を制御できないなど、やはり未熟者でしかないのか……そう思った時、師匠の次の一言が数馬の耳を捉えた。
「刀を抜いたら迷わず斬るべし」
その言葉を聞いた瞬間、数馬の脳裏に何かが閃いたような気がした。
刀を抜いたら迷わず斬る──そう唱えると、なぜか心が落ち着いてきた。
数馬は刀を手にして座し、己の迷いを断つべく心を統一する。
──斬るべきものは何か。己の迷いか、それとも目の前に迫り来る相手か……否!
「斬るべきものは──」
数馬の目に鋭い光が宿った。しかしそれは一瞬のことであった。抜きかけた刀を鞘に収めて立ち上がる。そして、道場の壁に向かって再び居合を放ったのである。
数馬は不敵な笑みを浮かべながら師匠に振り返った。
「邪念が消えました」
師匠は数馬の表情を見て、満足げにうなずいた。
「そうか……迷いが晴れたか」
「はい、邪念が消えました」
すると師匠は急に厳しい表情になり、数馬に言い放った。
「ならば抜け! 抜いてみよ!」
しかし、数馬は狼狽した様子で言い返す。
「で、ですが……自分は未だ心の迷いを断てず……」
すると師匠は再び座禅を組み直しながら言った。
「……邪念を捨ててもなお心の迷いがあるようじゃな。では問うが、その迷いを断つために抜けと言うておるのじゃ。さもなくば邪念を捨てたことにはならない」
数馬は戸惑っていた。居合とは迷いを断ち、邪念を捨てた上でなければ修得できないと師匠から聞いていたからである。しかし今、目の前には抜き身となった刀がある。それを抜くということはすなわち……
数馬はしばらく逡巡していたが、やがて意を決したように口を開いた。
「わかりました……抜かせていただきます」
刀を抜いて数馬は切先を正面に向けた。そして、鋭い視線で眼前の空間を見つめる。

──心の迷いは消えた。だが、再び迷いにとらわれるやもしれぬ……その時は斬るしかあるまい──そう自分に言い聞かせると、数馬の背筋に冷たいものが走った。
その時、目の前の空間に陽炎のようなゆらめきが生まれた。それは次第に大きくなっていくが、数馬の目はただ一点だけを見つめている。やがて陽炎は人のような形を取り始め、それが数馬の眼前に姿を現した「……何者だ!」数馬は陽炎に向かって問いかける。
「私は迷いの陰」
陽炎はそう答えながら、ゆっくりと数馬の方へ歩いてくる。その影は次第に濃くなり、やがてその姿を浮かび上がらせた。
「な……!」数馬は驚愕のあまり声を失った。陽炎はいつの間にか姿を変えており、着物を着た女性の形となっていたからだ。そして女性は微笑を浮かべながら言う。
「私は迷いの陰──あなたの心の陰」
すると今度は女性の傍らに別の影が浮かび上がった。数馬の鼓動が早くなる。
「私は迷いの陰──あなたの心の陰」
その影は幼い少女の姿を取り、声を発した。そして今度は二人の陽炎が同時に問いかける。
「私は迷いの陰──あなたの心の陰」
二人の声が響き渡り、道場内を不気味な静寂が支配した。その時、陽炎の少女の一人が数馬を指差して言った。
「あなたは迷っている」
続いてもう一人の少女が口を開く。
「あなたは迷っている」
二人はさらに数馬へと近づいていき、最後には二人の距離が数メートルのところまで縮まった。
「迷っておるな?」
陽炎の少女がそう言うと、残りの影も一斉に頷いた。その圧力に耐えきれず、数馬は一歩後退する。
──これが迷いの正体か……! その瞬間、陽炎が薄れて消えた。
数馬は呆然とその場に立ち尽くしていた。たった今目の当たりにした光景が脳裏に焼き付き離れない。自分を襲う激しい動悸は未だに治まらず、冷や汗で稽古着の背中がびしゃびしゃである。「今見たものがお主の迷いの正体じゃ」
背後から師匠の声が聞こえ、数馬は振り返った。
「……あれは……何だったのですか?」
数馬は恐る恐る尋ねる。すると、師匠は淡々と答えた「迷いが形になったものじゃ」と答えながら、壁際に置かれていた日本刀を手に取った。そして鞘から抜いて刀身を頭上に掲げる。それを見た数馬の背筋がぞくりとした。
──この刀が狙われている……! 数馬は直感した。