「数馬居合伝2」

北添数馬と申します。令和から江戸時代に行ってしまい、居合で江戸時代を生きていく物語です。

(30)浦和散策

北添道場の門弟から提案があった。「見沼通船堀を見たいです」と。何処からそういう情報を仕入れてくるのか分からないが、数馬は「ついでに鰻を食べて、サクラソウ(桜草)を見ましょう」と提案した。
浦和とはこれまた懐かしい。数馬は小・中学生時代、浦和(現・さいたま市)に住んでいたのだ。
サクラソウが見頃な、四月中旬に出掛けることにした。

中山道を北上し、まず、浦和宿に着く。街道沿いに鰻の店が何店かある。そのうちの「うらわ屋」という店に入った。
「“並”なら私がご馳走するけど、それ以上の物を食べるのなら、自分で!」と数馬は言ったので、みな“並”を注文した。並といっても令和の金額で3600円だ。かけそばが十杯食べられる。
鰻を焼く、いい匂いが漂ってくる。門弟の一人は「もう我慢できません!」と言う。
やがて運ばれてきた鰻丼に門弟一同はガツガツ食べる。

「浦和へ来たからにはここで参拝!」と調神社(つきじんじゃ)を参拝する。地元では「つきのみやさま」という愛称で親しまれている。兎が守り神で、狛犬ならぬ、「狛兎」が鎮座している。ちなみに神社なのに鳥居がない。

見沼通船堀に行きましょう」と、見沼通船堀を目指す。“見沼たんぼ”を歩く。

「♪はぁ~ 見沼田んぼは実りの稲穂
野田の鷺山(さぎやま) 通船堀を 守り育てる里景色
浦和踊りは ととんととんと
とんと 手拍子足拍子 
は~ぁ ととんとね~」

「先生、ご機嫌ですね。何の歌ですか?」
「“浦和おどり”って言って、盆踊りの歌です。未来の人が作った歌です」

見沼通船堀は東西二本の見沼代用水と、その間の低地を流れる芝川を結ぶ舟運のため、江戸時代中期の享保年間に開かれた。見沼代用水と芝川は水位差が三メートルあり、関を作って水位を調整し、舟を通す「閘門(こうもん)式運河」で、パナマ運河が同じ仕組みである。年貢米を江戸まで運び、小間物など生活必需品を積んで帰る重要な流通経路の一つであった。ちなみにパナマ運河より百八十年以上前に造られている。
江戸の街がそうであるが、物資輸送は水運が中心だ。

見沼通船堀に着いた。そう都合よく舟はやってくるまい、と思っていたが…
「先生、舟がいます」と、ある門弟が言う。
一艘の舟が芝川で待機している。見沼代用水東縁(ひがしべり)に向かう舟だ。
通船堀には、芝川側から「一の関」「二の関」と、二つの関がある。この二つの関で三メートルの高低差を克服している。ちなみに見沼代用水は利根川から引水している。

さて、舟は「一の関」を通ったところで止まる。「一の関」をせき止めて水位を上昇させるのだ。関に「角落(かくおとし)」という、厚めの板を一枚設置して、もう一枚設置して、といった具合で、時間をかけて水位を上げていく。半時(はんとき・一時間)ほどかかる。

舟が移動するのを確認してから、数馬は…
「方角が反対だけど、サクラソウを見ましょう」と、門弟たちを案内する。
サクラソウは、多くの品種があるが、今回見るのは、荒川ぞいの田島ヶ原に自生しているサクラソウである。

サクラソウ自生地に着いた。幕府が管理しているので、六尺棒を携えた役人が見張っている。物々しい。
数馬は「決して触らないように!」と門弟たちに注意をする。
見張りの役人は「江戸の方々ですか。ゆっくり見ていってください。ちょうど見ごろです。いい時に来ましたね」と言う。見張りの役人にしては愛想がいい。

「桃色の花がきれいですね」
と、門弟が言う。
ある門弟は、「こんなにきれいな花畑、江戸には無いですね」と。

来て良かったと思う数馬であった。


サクラソウ自生地を「幕府が管理している」というのは、フィクションです。武蔵野線西浦和駅下車。国指定特別天然記念物
見沼通船堀は年に一度、「実演」をしています。武蔵野線東浦和駅下車です。国指定史跡。
※「浦和おどり」は5番まであります。今回は3番です。昭和51年制定。都はるみ大川栄策が歌っています。

見沼通船堀の図