「数馬居合伝2」

北添数馬と申します。令和から江戸時代に行ってしまい、居合で江戸時代を生きていく物語です。

(55)北添数馬 外伝「北添数馬の居合道論」

居合道とは常在戦場である」
これは北添数馬の結論だ。平成の時代、八段の先生は「居合道は人生である」とおっしゃっていた。
居合道とは、刀によって己が人生を表現しようとする、いわば修行僧の道である。
居合道は勝敗を競う競技ではない。道場を主宰する宗家をはじめとして、至らぬところを補い合う仲間たちがいて初めて成り立つ競技である。
居合道は、戦のためではなく自己の鍛練のために生涯を捧ぐ求道の道である。死ぬことは恥ではないが、しかし負けを意味する。相手が先に死んでも、こちらが先に死んでもそれは同じことだ。死とは剣の道を究めるという目的に照らしてのことであって、人生を終わらせるためではない。

北添道場においては、門下生たちの「善い行い」こそが最大の焦点となっていた。
居合道において一番大事なことは何か? それは言うまでもなく「礼を失しないこと」である。北添道場では、礼と並んで人格を重んじていた。これは北添自身の信念がそうであったように、門弟たちにとっても非常に大きな影響を与えていた。
居合道は侍の技であるから、その礼法は武士道に由来するものが多い。礼法とはすなわち「人間として正しい道」である。したがって居合道において何よりも優先されるのが、礼法を守るということだ。
武士の作法として、礼法は必修であった。だから居合道のみならず、どの武道においてもその道場に入門した者は、まず最初に礼法の修練を課せられるのだ。
居合道の道場で教え込まれる礼儀作法は数多くあるが、その最たるものは「正座」だろう。正座とは足を折り曲げて座ることだから、つまり両膝をぴたりと揃えて座る。そして背筋を伸ばし、少し顎を引けば、自然と頭が天を仰ぐ格好になる。それは頭を高い位置で保つことになり、相手を見下ろすことになるのだ。
居合道における「礼法」に背けば死あるのみである。つまり門弟たちは皆、道場の中では常にこの「正しい正座」でいることを求められるのである。正座をしなかった日は一日たりとなかったはずだ。

冒頭で北添数馬は「常在戦場」と述べた。正座をしている時も四方に気をくばる。残心のときも、敵が死んでいないかもしれない、また向かってくるぞ、と、気を緩めてはいけないのだ。

……あまりまとまっていませんが、この辺で… 北添数馬

筆者より、居合道における礼法
・道場(体育施設)への出入りするとき、入口で立礼
・神座(しんざ)への礼
・先輩への礼
・師に対する礼
・刀礼 殺陣や抜刀道でも刀礼がある。

ついでに…
入門時に正座はかなり矯正されました。

イメージ