北添数馬は、長屋で刀の手入れを終えると、寝ころんで、鼻をほじった。
そこへ、坂本龍馬がやってきた。「やあ、北添さん。また、刀の手入れか」
「はい。刀は武士の魂でございますからなあ」
「あんたも物好きやねや」
「坂本さんこそ、わざわざ出向いて来られては迷惑ですぞ。これでも忙しい身ですからなあ」
「いや、今日は折り入って頼みがあって来たんじゃ」
「ほう、頼みとな?」
数馬は興味を持った。
龍馬がこんなことを言うのは珍しいからだ。
「実は、わしの仲間で市川宇八郎という男がおるんじゃ」
「聞いております」
市川宇八郎は龍馬の幼馴染みである。
「そいつが、近頃、風神党から狙われているようなんじゃ」
「何ですって?それは一大事ではないですか?」
「ああ、それでな。あんたから言うて、市川を守ってくれんか?」
数馬は首を傾げた。
「それは構いませんが、坂本さんはどうされるのですか?」
「わしは土佐へ戻らんといかん」
「わかりました。この北添数馬、命を懸けて市川殿をお守りしましょうぞ!」
「そうか、すまんのう。恩に着る」と、龍馬は頭を下げた。
数馬は、龍馬が自分を信頼してくれていることを嬉しく思った。
「それで、その市川宇八郎というお方はどこにおられるのですか?」
龍馬は、北添家の裏にある小屋を指差した。
「あそこにおる」
数馬が小屋の戸を開けると、中では一人の若い侍が刀を抱いて寝ていた。
(これが市川殿か……)
数馬は、その若者に話しかけた。「もし、市川殿」
しかし、宇八郎は起きようとしない。
「もし、市川殿!」
ようやく、宇八郎が目を覚ました。「ああ、北添さんやか」とつぶやく。
数馬は小屋に入ると、市川の向かい側に座った。
「あなたが市川宇八郎殿ですな」
「いかにも……」
数馬は頭を下げた。
「私は北添数馬と申します」
「坂本さんから聞いた」と、宇八郎が言った。
「それで、北添さんは何の用やか?」
「いや……」今度は数馬の方が口ごもった。
「実は、あなたが風神党から狙われていると聞いたもので……」
「ああ、そのことやか」と、宇八郎は苦笑した。
「大丈夫ぞね」
数馬は納得しなかった。
「いや、しかし危険ですぞ!あなたにもしものことがあったら龍馬さんも悲しむでしょう!」
「坂本さんが?」宇八郎は少し驚いた顔をしてから言った。
「大丈夫ぞね。だってうちは土佐一の剣豪ながやき(なのですから)」
数馬は腕を組んで唸った。
「ご自分の腕に自信があるようですな?」
「はい」宇八郎は即答した。
「では、その腕を見せてもらえませんか?」
数馬はそう言うと、腰に差していた刀を抜いた。
宇八郎もあわてて立ち上がった。
「ほほう、良い構えです」数馬が感心する。「さすがですな」
だが、宇八郎が真剣を抜いて構えた瞬間に勝負はついた。
数馬は一瞬で間合いを詰めると、刀の柄で相手の首筋を打って気絶させた。
「な……なんと……」数馬は呆れ返った。
「市川殿、やはりあなたはまだまだですな」と、数馬は言った。
それから三日後。
市川宇八郎は北添数馬の計らいにより土佐へ送り届けられたが、その途中で姿を消してしまったという。