「数馬居合伝2」

北添数馬と申します。令和から江戸時代に行ってしまい、居合で江戸時代を生きていく物語です。

(46)田原坂

JR鹿児島本線田原坂(たばるざか)という駅がある。西南戦争の一番の激戦はその田原坂であったという。
「雨は降る降るじんばは濡れる 越すに越されぬ田原坂
明治維新”というが、それをきっかけに何もかも綺麗に切り替わったわけではない。それが士族の蜂起であり、その象徴が西南戦争なのである。

戊辰戦争終結して新政府が樹立したが、体制は安定していなかった。また旧士族の不満も高まっていた。そうした中で西郷隆盛征韓論で破れた。それを追って鹿児島出身の官僚や軍人も辞職し、薩摩の藩閥は政府に残った大久保利通派と分裂することとなった。

西郷は「私学校」を設けて士族の子弟の教育にあたっていたが、政府にいる大久保はこれを警戒し、状況を探るために警視庁の警官を鹿児島へ派遣した。福岡や熊本、萩などの各地で士族の反乱が起き、私学校の生徒が政府を打倒すべく西郷に決起を迫ったが、西郷は応じなかったという。

政府は反乱を警戒して鹿児島にある兵器や弾薬を持ち出した。これに加え、私学校の生徒は、警察官を派遣したのは西郷を暗殺しようとしたのだと激怒し、草牟田の陸軍火薬局を襲撃、武器や弾薬を奪った。西郷は政府に反抗する意思はなかったが、私学校の生徒と共に政府と戦うこととなった。

明治十年二月一四日、薩軍は政府のある東京へ向けて出発。川尻で仲間が加わり政府軍が守る熊本城を攻めるが失敗、北上して田原坂へやってきた。
田原坂は明治十年三月四日より一七日間、西南戦争の激戦地となったところで「田原坂の戦い」として有名な場所である。死傷者は六五〇〇人といい、この戦いで薩軍は多くの精鋭を失い、人吉(ひとよし)、鹿児島(かごしま)へと敗走することとなった。

北添数馬は薩軍として転戦していた。実は幕末の頃、西郷隆盛の腹心として働いていたことがある。その縁である。
「チェストー!」(「それいけー!」という掛け声)
数馬は先頭に立って突進する。その後ろには同じく薩摩武士たちが続く。
「チェストー!」
一人が叫ぶ。また一人、また一人と叫び続ける。
数馬の刀が閃くたびに、敵兵の血がほとばしり出る。それとともに彼の周りには死体の山ができる。まさに獅子奮迅の活躍である。とても居合道三段とは思えない。
薩摩武士たちは戦意旺盛だっただけに、敵を撃退した後で、
「西郷先生……」
と涙する者が続出したのであった。
「西郷先生!」
「西郷先生!!」
「西郷先生!!!」
数馬は薩摩武士たちの尊敬を一身に集めている。田原坂における彼の奮戦ぶりは、彼らの記憶に残ることとなる。
さて、薩軍の総指揮官である西郷隆盛は、田原坂において苦戦している部下たちの姿を見て激怒した。
「こげんもんやってらるっか!」
西郷隆盛は移動を始めたのである。彼を追いかけるのは供回りの北添数馬と篠原国幹(しのはらくにもと)である。さらにその後を参謀たちが追いかける。
「おい! わしに続け!」という声が上がると、田原坂にいた兵士たちも立ち上がってその後に続いた。
「西郷先生を死なせるな!」
「西郷先生! 我々もお供いたします!」
供回りの篠原国幹と北添数馬は大声を張り上げた。他の薩摩武士たちも、口々に叫んでいる。彼らはすでに刀を捨て、銃を手にしている。
そして薩摩武士らは戦場を駆け抜ける。その勢いは凄まじいものであった。それに押される形で敵兵たちは退き始める。
西郷隆盛は下馬し、刀を握り締めて走る。
「チェストー!」
薩摩藩の兵士たちは大喜びである。彼らが見ている先にいるのは、敬愛する西郷隆盛だ。まるで水を得た魚のような勢いで敵を蹴散らしている。もはや敵の反撃などないも同然だった。薩軍は敵陣深く侵入していく。
「チェストー! チェストー! チェストー!」

この田原坂加藤清正が熊本城防衛のために開通させたものであるが、政府軍が熊本へ向かうにあたって、唯一大砲を曳いて通れる道幅があったのがこの坂であったという。薩軍にとっても重要な場所であった。

田原坂の戦いで政府軍が一日に使用した小銃弾の量は三二万発ともいわれ、「かち合い弾」といって、空中で弾同士がぶつかって変形したり合体した弾が後になって発見されたといい、それほどの激戦であったのだ。
 
その後、延岡(のべおか)の和田越で薩軍の西郷は初めて陣頭指揮に立ったが敗れてしまい、可愛岳(えのだけ)山麓に追いつめられた西郷らはこれを突破して、九州山地を縦断して鹿児島の城山までたどりついた。政府軍約四万の兵に三七〇人の西郷軍は包囲されてしまう。政府軍幹部が望まなかったこともあってしばらくは総攻撃がなかったが、約二週間後、ついに総攻撃がかけられ、戦いが繰り広げられた。

約四〇名の将兵が本営の洞窟の前に揃う。そして全員斬り死にするために岩崎谷の入り口まで西郷を囲んで走り出す。
西郷は銃弾を受け、西郷は数馬に、

「もう歩けんで首を斬ってくれ」
と頼んだ。
「えっ! 別府さんではなくて?」
「ともかっ、北添どんにお願いしよごたっ(お願いしたい)。奄美は楽しかった(※「(33)奄美大島へ…」参照)。よう来てくれた。さあ、はよ」
数馬は「順刀」(じゅんとう・夢想神伝流介錯の技)をやった。

西郷は数馬の介錯で生涯を閉じた。明治十年九月二四日であった。

史実では、西郷隆盛別府晋介介錯したことになっている。別府晋介は数馬の身代わりになったのだ。別府晋介は、
「数馬どんな逃げたもんせ… こんこっを後世に伝えてくれ……」
と言い残して自害した。

数馬は政府軍の包囲網を何とか突破し、逃げた。逃げた。
東京まで逃げ、世間のほとぼりが冷めるまで、山岡鉄舟に匿ってもらった。

数馬には、西郷を介錯したときの感触が残っている。なので、数馬は畳表の試し斬りは絶対にやらない。切り口を見ただけで吐き気がするのだ。実際、西郷の介錯をしたとき、数馬は激しく嘔吐した。嘔吐したときの酸っぱい苦い味、介錯をしたときの感触… 忘れることはないだろう。なので、試し斬りなんて、まっぴら御免なのである。

筆者撮影