北添数馬は山岡鉄舟の無刀流の道場に入門した。
山岡先生が来る前に道場に到着し、懸命に素振りをする。
数馬は一振りするごとに剣の風圧で空気が切れるように感じた。
「よう、来たか」
鉄舟は突然現れる。
音もなく、気配もなく現れては短い会話を交わして帰っていく。
それは言葉なのかと思えるほど短かった。
ある日、数馬が鉄舟に呼び出された。
「今日はゆっくり話そうや」
ふたりは道場の横にある畳敷きの部屋で話をすることになった。
「北添よ、お前は剣に向いている。何か技を身につけてみないか?」
鉄舟は話を切りだした。
「わしはな、居合を伝授したいのだ」
「居合……ですか」
数馬は振りかぶった刀を鞘に収める動作を思い浮かべた。
しかし鉄舟は首を横に振った。
「それは抜刀術や」
「抜刀術?」
「ああ。わしの師匠は『無刀』と呼んどったがな」
「無刀!?」
鉄舟の師匠は『無刀』である。
「居合を使える人間はそんなにおらん。みんな抜刀術や」
数馬は身を乗り出すようにして鉄舟に訊ねた。
「私に、できますか?」
「ああ、お前ならできる。問題は基本ができているかどうかだ」
数馬は納得して頷く。
「よし!では今夜からでも特訓するぞ!」
「はいっ!先生!」
こうして数馬は居合を習得することになったのである。
翌日、ふたりは道場に正座し、向かい合う。
「はい!」
ふたりは同時に抜刀した。
次の瞬間にはもう数馬の刀は鞘に収まっていた。
「やはりな……」
鉄舟は渋い表情になり呟いた。
数馬の斬撃の速さと正確さを見て取ったのだ。
彼は自らの見立てが正しかったことを悟ったのである。
数馬は居合の特訓に励んだ。
「はい!」
数馬の抜刀は日に日に速くなり、その正確さも増していった。
「よし!今日はここまでだ」
鉄舟がそう告げると、ふたりは正座して向き合ったまま礼をする。
「ありがとうございました!」
そして道場を出ようとしたときだった。
鉄舟が数馬を呼び止めたのである。
「待て」
数馬が振り返ると鉄舟は言った。「まだ残っておる」
数馬は一瞬驚いたが、すぐにまた正座し直す。
鉄舟は話を続けた。
「お前は誰よりも居合を極めることができるだろう」
「いえ、私などまだまだです……」
数馬は謙遜するが、鉄舟は首を左右に振る。
「いや、お前なら必ずできるはずだ。わしが保証する」
鉄舟はそう言って微笑んだのである。
鉄舟は数馬に居合の極意を授けた。そして数馬はその教えを忠実に守り、居合を極めていったのである。
ある日、鉄舟は数馬に言った。
「北添、お前に伝えたいことがある」
「何でしょうか?」
「お前はもう立派な剣士だ」
「ありがとうございます!」
数馬は深々と頭を下げる。
「そこでな……お前にある技を教えてやろうと思う」
「ある技?」
「そうだ。これは『無刀』から教わったものだ」
鉄舟はそう言うと、居合の構えを取った。
数馬も彼に倣って居合の構えを取る。
次の瞬間、鉄舟は目にも止まらぬ速さで抜刀した。
それはまさに一瞬の出来事であった。
「北添よ……」
鉄舟は刀を鞘に収めると数馬に訊ねる。「どうだ?今のが無刀流の技のひとつだ」
「はい。素晴らしい技ですね」
数馬は素直に感想を述べた。
しかし鉄舟は厳しい表情になる。
「だが、今のは『無刀』が編み出した中でも完成された技のひとつに過ぎない」
「え?」
「無刀流にはな、他にも様々な技があるんだよ」
鉄舟の言葉に数馬は大きく目を見開いた。
「それは是非教えていただきたいです!」
鉄舟は首を横に振った。
「無刀流には門外不出の教えが多い。残念だが、わしからは教えられんのだ」
「そうですか……」
数馬は落胆する様子を見せる。
「北添よ、心配するな。無刀流には他の流派からも教えを請うこともあるから、それを学びなさい」
「わかりました!」
数馬は深々と頭を下げた。
その日から数馬はさらに稽古に励んだのである。